コール・トゥッティ演奏会を終えて

新潟シティ合唱団コール・トゥッティの10周年記念演奏会が終わりました。久しぶりに満足のいく演奏をすることができ、それを実現させてくれたすべての人やものに心から感謝しています。このような達成感は10年に一度味わうことができるかどうか。もちろん、細かいことを言えばキリがありませんが、ここ10年でベストだったことは確かです。もう二度と味わえないかも。いやいや、この手応えを勢いに、もうひと踏ん張りしたいと思います。

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よい演奏会にはさまざまなよい要素の相乗効果が欠かせないことは、以前から繰り返しお伝えしている通りです。丁寧でじゅうぶんな準備、作品への理解と思い入れ、共演者どうしの信頼、お客様への責任と思いやりなどなど。それらのどこかひとつでもほころびがあれば、崩壊の魔の手はすぐに伸びてきます。そして、エレクトーンはその影響を受けやすい楽器ですから、よい演奏のためには障壁をひとつ残らず取り除いておかなければなりません。

今回の演奏曲には準備に半年以上の期間を費やし、細かい手直しを本番の直前まで繰り返し行ってきましたし、合唱団との稽古にも積極的参加しながらメンバーを鼓舞することにも努めました。事前準備としては鉄壁です。ところが本番前日のリハーサル、つまり昨晩行われたゲネプロでは、合唱団との一体感が得られず、ひとり浮いてしまった感がありました。これは大問題です。

解決法はいくつかあります。一番簡単なのは私が妥協をして歩み寄ること。でも、それは音楽的にはよい考えとは言えません。メンバーを動揺させず、なんとかもう一段高いところでアンサンブルできないか、夜通し考えました。なぜ、全力を投じて歌っているように聞こえないのか。とりわけエネルギーを解き放つべき曲の時に、まるで出し惜しみしているかのような印象になっていましたが、コール・トゥッティに限って、これが限界であるはずはありません。

エレクトーンがパワフルすぎるのかと思ってセーブすることも試みましたが、それでは音楽が小さくなってしまい、作品が求めるスケール感が死んでしまいます。合唱団には何とかもうひと踏ん張り張り切ってもらえるようお願いをして、その他に私に出来ることは何か。思い切って音の出し方を変えてみることにしました。拍やフレーズの変わり目を輪郭を描くように強調しつつ、圧で常時押し切ることのないように。あとは本番のミラクルに期待して。

一方で、自分にとって弾きにくいことにも慣れる必要がありました。スピーカーを合唱団の後方に設置したので、アンサンブル時は自分の音がほとんど聞こえません。合唱とハーモニーが重なっている部分は、もし私に自分の音が聞こえたなら、それはエレクトーンが大きすぎることを意味します。聞こえない中で絶妙なバランスを保つための経験と技術は持っているつもりですが、そこに神経を使うということ自体、今回はあまりしたくありませんでした。

そうして迎えた本番。私の出番は第3部だけですが、冒頭から固唾を呑んで見守ります。合唱団の第一声の輝きを聞いて安心しました。お客様も聞きなれない音楽にもきちんと耳を傾けけくれ、会場全体を一体感が包み込みます。第3部もその流れの中で、順調な滑り出し。エレクトーンの序奏に合唱が加わった瞬間、リハーサルとの圧倒的な違いに驚嘆しました。ひとりひとりの声のパワーが、私の体を貫通して客席へと広がっていくではありませんか。才能豊かなソリストたちも、この世のものとは思えない美しい旋律を紡いでいきます。

天から音楽が降ってくる。ひたすら音楽にのめり込んでいくと、ごくまれにそのようなことが起こります。すると私の体は私の心から引き離され、天上の音楽によって操られます。ああ、この幸せといったら!

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