うちのキンギョ

おばのところで飼われているタロウの兄弟を紹介します。
キンギョのテリィは、なぜかテリィは逆さです。はじめはフツウでしたが、いつのまにかこのように。

こうなったのを最初に見た時は、瀕死、あるいはすでに他界したのかと思いましたが、それ以来1年以上もこの状態で生き続けています。
おなかが上にあがっちゃうということは、なにか腹腔内に空気でも溜まってしまったのでしょうか。

テリィの本心は苦しいのかもしれませんが、はた目には愛嬌のある姿に映ります。
背泳ぎの名手であり、コメディアンであり、時には優雅にイナバウアーをしているように滑らかな泳ぎを見せます。

ところが、ほかの小さなソードフィッシュたちは、このテリィが気に入らないらしく、時折攻撃を仕掛けます。
ケガをしかねないということで、現在はコンパートメントでひとり暮らしをしています。

私は子供のころ、音楽と同時に熱帯魚に夢中になった時期がありました。
魚類は大雑把にわけて海水魚と淡水魚がいますが、私はもっぱら淡水魚。
色とりどりの個性あふれる魚たちを眺めながら、行ったことのない深いジャングルの川がどんな様子なのかを想像していました。

はじまりは小さな水槽と数匹の雑種のグッピーでした。
それが次第にエスカレートし、生態や好む水質などの関係で同居させられない魚を入手し続けたことで、気がつけば部屋が水槽で埋め尽くされていました。

熱帯魚は温度管理が必要ですが、個々の水槽にヒーターを入れるよりも、室温全体を保つ方が効率的なまでになっていたので、住まいの1室をマイ水族館に改装してしまいました。

毎日の音楽稽古の合間に熱帯魚の世話をしますが、一番大変だったのは水替えです。
通常1~2か月に1度でいいことですが、水槽の数が多いので、ほぼ毎日、少なくともひとつの水槽は洗わなければなりません。
水質が変わると魚が弱るのでとても気を遣う作業ですが、楽しんでやっていた記憶があります。

いったい魚の何が私をこれほどまでに魅了したのでしょう。
当時は考えもしなかったのですが、今になって分析してみると、さまざまな要素が見事に重なり合っていたことがわかりました。

まずは見た目の美しさ。これは重要です。
一匹ごとに模様やボディラインが異なり、動く宝石とも言われる熱帯魚。
その調和を見出すのは、万物に共通する美の定義にも関連しています。
更に、命が限られているために、芸術品と違って次世代に引き継ぐことのできないという性格も、幼い心に大きな意味を感じさせました。

また、魚たちは自分とはまったく異なる環境から来た、いわば大使であり、ジャングルでの生活を無言で語ってくれました。
この影響は大きかったようです。

それを受け、美しさに主眼をおいて選んでいた魚が、次第にワイルドな魚へと興味が大きく変わっていきました。
そして、一見グロテスクな姿に隠された見事な機能や、種として億という年月を生き抜いてきたたくましさに、新たな美を感じるようになりました。

誰もが認める美しさとは別の次元に潜む様々な美を見出す審美眼を、ジャングルの魚たちが教えてくれたのです。

最終的には水槽内のディスプレイ・レイアウトに惹かれました。
華やかな夢の世界ではなく、ワイルドな水草が鬱蒼とする中に、強面の魚と神秘的な魚が同居する、無骨ながら繊細な雰囲気を創造するのが好きで、アマゾンの黒い水を再現したり、その水の屈折までコントロールするほど気合が入っていました。

でも、ある時、これはもう手に負えないという思いに至り、すべてを東京タワー水族館に委譲し、私はやっと陸へ上がったのでした。

当時、頻繁に出入りした熱帯魚屋さんは、こちらです。
まだあるのかなぁ、と思ってサイトを検索したんですが、今でも子供のころとほとんど変わらない雰囲気を保っているなんて、なんだか嬉しいです。