サンクエトワール

9日のSongs from My Heartが無事終了。盛だくさんのプログラムに加え、出演者のサービス精神とお客様のノリのよさが見事にブレンドして、深い静寂から熱狂的な活気まで、さまざまな雰囲気を体感できる演奏会になりました。私のリサイタルに来ても、何が何だかさっぱりわからんと言っているうちの家族が、いや~楽しかった!と大満足だったのを受けて、嬉しいやら悔しいやら。そういう私も、ヘトヘトに疲れながらも、いい演奏会だったなぁと余韻を楽しんでいます。

その一方で、今回の演奏会では、準備の段階でいろいろと考えさせられました。時系列を振り返りながら、自分の立場や心境などについて思い出してみると、自分がこうありたいという姿と、現実の自分との格差に落胆せざるを得ません。

このシリーズでは、私に極めて大きな役割が与えられています。かといって何か聞こえのいい肩書がつくわけでも、特別な報酬があるわけでもりません。ただただ、やることが多いという、一見、損な役回りです。中でも手間と時間を要するのは編曲です。今回、出演者は私以外にソリストが4人。それぞれに20分程度の持ち時間を演じますが、私は全員分の演奏準備をしなければなりません。私にとってレパートリーの枠外であることの多い作品を、すでに慣れているソリストと同等、あるいはそれ以上の解釈と演奏品質にまで仕上げるのです。イメージ的には、ソリストたちは慣れたスイムスーツで10キロ泳げばいいところ、私はその30キロ背後から鎧を着て泳ぎ、ゴールまでに追いつけと言われている状況。それに加え、司会進行など演奏以外の役割も果たす必要があります。

このアンバランスは、ある意味、仕方のないことです。私がどれほど大変でも、実際、ソリストたちが私のためにできることは何もありません。私の役割は私にしかできませんし、だからこそアンバランスでも引き受ける決心をしたわけです。そして引き受けた以上は、やり遂げなければいけません。

結果的には、私はやるべきことはやり遂げました。でも、当初イメージしていた、ゆとりのある演奏には程遠い仕上がりでしたし、追いつめられることで、気持ちもおおらかでいられなくなり、大切なことが不安の影になって見えなくなるなど、器の小ささを痛感することにもなりました。

当日の演奏も、もっと集中力が維持できれば、さらによい演奏ができたはずです。雑踏の中で無の境地を得て、それで周囲を包み込めるほどの精神力が求められているのに、私はまだそこまで至っていないのです。

ただ、ひとつ自分を認めてやりたいと思えるのは、決して自分を優先することなく、お客様本位、音楽ありきを貫けたところです。他を犠牲にして、自分の演奏だけを守る方法なら、いくらでもありました。でも、私ひとりが完璧に弾いても、アンサンブルが乱れれば、お客様をがっかりさせます。ソリストを引き立て輝かせることが演奏会への最大の貢献だと判断したのは、間違いではありませんでした。

次のチャレンジは、30日の和歌山。これから20日でラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲を仕上げます。気は抜けませんが、勝算はあります。愛子さん、和歌山の皆さん、待っててね。