音の「らしさ」より、文化的な音楽性

11月前半は、姜建華さんとのコンサートツアーやクローズ演奏会が続きますが、今日はそのための編曲を一気に仕上げる予定です。

新しく用意する作品もありますが、多くはやり慣れている曲。ではなぜ改めて編曲が必要かというと・・・編成が違うからなのです。

民音のツアーは、姜建華さん(二胡)、郭敏さん(揚琴)、安宅薫さん(ピアノ)と私の4人メンバー。この公演はもうすでに60回を数え、コンサートとしてはロングランの部類です。

この編成のアンサンブル編曲はすべて私がしましたが、常に全員で弾くというわけではなく、編成はまちまちです。

特にエレクトーンが加わる編成の場合、さまざまな工夫が可能ですので、編曲も複雑になりますが、その際に私が心がけているのは、仮にエレクトーンが入らない編成でコンサートを行う場合でも、ピアノや揚琴のパートをそのまま弾けば大丈夫な編曲にしておくことです。

そうすれば、私が加わらない時でも、混乱することなく演奏することができて便利です。

ところが、逆の配慮はほとんどしていませんでした。つまり、ピアノや揚琴がいなくなって、エレクトーンだけで伴奏するというパターンについて考えてなかったのです。

姜建華さんと神田将のふたりで行う公演は、これまでに何度もありましたので、もちろんデュオ用のレパートリーはたくさんあります。

通常はそうしたデュオ用レパートリーから選曲するのですが、今回のデュオコンサートに際しては、なぜかそうでないものからの指定が多く入ったため、慌てて編曲し直す必要が生じました。

中でもとりわけ苦労しているのが、通常、二胡と揚琴のデュオで演奏される作品。あらゆる音色を奏でられるエレクトーンですが、極めてシンプルで中国的な調べをそれらしく表現するのは、非常に困難です。

やはり、音が「らしい」ことよりも、文化的な感性やニュアンスとしての音楽性が問われるからでしょう。

これまで数多くの中国出身演奏家と共演してきましたが、もしこうした経験がなければ、今回の編曲にもさして違和感を覚えず、いつもの感覚で仕上げていたと思います。

でも、中国音楽のなんたるかを少しは知ってしまった今、いい加減な仕事はできません。楽譜にしたら何ということはない作品ですが、これを私がしっくりと演奏できるようになるには、少なくともあと何年かは修行が必要です。

というわけで、一刻も早く作業に取り掛かろうと、昼過ぎに外出先から家路を急ぎました。都内での交通手段はもっぱらタクシーです。

タクシーに乗り込んだ時、ちょうど携帯電話に着信があったので応答しましたが、すこしホールドして運転手に行き先を告げました。

いつもならルートの指示などの会話があるのですが、通話中なので運転手も気を遣ったのか、そのまま走りだしました。

通話は30分以上掛かってようやく終了。気が付くと、車は私が想定していたのとはまったく違うルートを通っていました。それでも行けないことはないのですが、距離的には1.5倍から2倍の間くらい遠回りです。

しかも、信号が多く、止まっている時間が長いので、時間のロスが気になるところ。結局、いつもなら一般道でも30分足らず、4,000円弱、首都高を使えば20分、5,000円弱で行くところを、55分、6,000円も掛かりました。

きちんとルート指示をしなかった私も悪いのですから、払うものは払いますが、一言、いわせてもらいました。

「あなたの選んだ道はひどく遠回りだから、次の機会があるとしたら○○経由にした方がいいですよ。」

運転手は不機嫌そうに黙ったままでした。いつかなんて「ホテルニューオータニ」と告げたら知らないと言われるし、「コンラッド」なんて知っている人の方が少ないです。最近のタクシーは、素人ドライバーが多くなったような気がします。