しゃべりっぱなしの中で

コンサートでの私をご存知の方々は決して信じてくれないのですが、実のところ、私は無口です。
黙っていろと言われれば、10日でも1カ月でも無言でいられますし、むしろその方が気楽だったりします。

ひとつにはこの高い声にずっとコンプレックスを持って生きてきたので、できることなら人に声を聞かれたくないから。

そしてもうひとつは、人と会話している時、自分でしゃべっているにも関わらず、それがまるで自分の考えではなく、どこかから勝手に湧いて出ている言葉のように感じられることがあり、いつか言いたくないことまで口にしてしまうのではないかと恐れているからです。
また、元来寡黙だからこそ、音楽という表現手法を、たぶんひとつの自衛本能として、がむしゃらに習得したのかもしれません。
それに、人の話を永遠に聞き続けることも苦痛になりません。
もちろん、聞く価値のある話であればですけれど・・・
というわけで、私自身のことを無口と結論づけたわけです。

ところが、今日は自分でも驚くくらいよくしゃべりました。
万歩計ならぬ、万語計があれば計測してみたいですし、今日に限って高々と伸びるグラフを誇らしげに保存しておきたいものです。

なにをそんなにしゃべりまくったのかというと、エレクトーンのこれからをどうしたいか、どうあってほしいかという未来像です。

朝からアポイントがいくつもあり、その多くが音楽シーンの中でエレクトーンを輝かせることができる立場にある人たちでした。
さまざまな立場でありながら、エレクトーンに愛情を注ぎ、私同様になんとかそこに光を当てたいと考えている人々です。

そうしたディスカッションの中で気付かされるのは、これまでエレクトーンの持つ個性とか特性を際立たせることに意識を払いすぎて、音楽や楽器が持つ普遍性の中に溶け込む努力が不足していたという現実です。
珍しい楽器だと驚かれるよりも、それ以前にふつうに心地よい楽器でいいのではないかと思います。

エレクトーンには高度な機能が備わっているだけに、複雑にプログラムされたデータに依存して、自分の指先ひとつに魂のすべてを注いで表現する尊さを忘れてしまっているのかもしれません。

自分の求める音や響きが出ない場合、機能で解決しようとする、すなわち楽器を弾き手に従わせることが少なくありませんが、本来は、弾き手の方こそが楽器に歩み寄り、それで何かを通わせる方が自然なのです。

エレクトーンにもさまざまな使い方があっていいのですが、音楽を表現するのであれば、一度原点に立ち戻って、血の通った音を奏で、シンプルであっても人の胸を打つような演奏を重ねていきたいものです。

エレクトーンに対しては、機械を超えた存在として接しながら、少しでも美しく鳴り響いてくれるよう愛情を注ぐことも大切です。

たとえば車だって、マシン。でも、愛情なしには芸術的な走りをしてくれないことは、ドライバーなら知っています。
すべては心の持ちようから始まると、私はそう思っています。