長崎の祈り

長崎の旅、連載最終回は、最終目的地の長崎市。佐世保を後にし、車に揺られること1時間半ほどで長崎市内に到着。ホテルにチェックインしたのが午後5時を過ぎており、名所を見て回るには出遅れた感がありました。

そう、実は私には初めての長崎市だったのです。昔から坂の多い港町が好きなので、その風情を肌で感じたいと思うものの、演奏会続きで消耗し切った体が震えたり痺れたりしてきたこともあり、気持ちを抑えて部屋でおとなしくする決心をしました。

せめて長崎のことを少しでも知ろうと、フロントでもらったマップを広げ、イメージを膨らませてみたものの、居ても立っても居られなくなり、街へ繰り出すことに。まずは平和公園に行って、できればグラバー園もと思いつつ、下り坂の天気と暮れ始めた空に惑わされ、結局、宿から一番近い名所の出島を見ることしかできませんでした。

帰り道に文明堂総本店で、恭しい店員からささやかな買い物をし、せっかくだから長崎チャンポンでも食べてみようかと、店の前を何度か往来したものの、この手の店に入ったことが無いために、注文の仕方がわからず、入るかどうか迷っているうちに気が萎え、しょぼくれて部屋に戻りました。

あと1ステージ。とにかくいつも通りやろうと思いながら、この夜も早くベッドに入ったのですが、夜半から風雨が強まり、明け方には嵐のような激しさとなって街路樹が窓を叩き、気持ちが休まりません。警報でも出なければいいがなぁと心配でしたが、出発時間には峠を越えて落ち着いてきました。

最終回の演奏会は、城山小学校で。この学校が爆心地からさほど離れていないことは知っていましたが、これほど特別な場所だとは想像していませんでした。校門へと続く坂を車で登る時に、例えばモン・サン・ミシェルや高野山などが持つ、祈りの場独特の空気を感じました。

校門を入るとすぐに目に入るのが少年平和像。その小さな像の両脇には、びっしりと千羽鶴。後から聞くと、子供たちは登下校時に必ず礼拝しているそうです。像の傍らには、被爆した建物の一部が残されており、内部には貴重な資料が展示され、ボランティアの方々が日々ガイドを務めています。他にも、敷地内には、500メートル東で炸裂した原子爆弾により姿を変えた樹木が今も命を繋いでいたり、亡くなったり傷ついた方々の思いを伝えるものが、多数あります。

開演までの時間、これらのほぼすべてを目にし、ひとつひとつに祈りを込めているうちに、私はすっかり打ちのめされてしまいました。今日、私たちの演奏を聞いてくれる子どもは五百人弱。当時、この学校に通っていた生徒千五百人のうち、千四百人が爆弾で命を落としたそうです。

演奏会はいつも通りに準備され、予定通り五百人近い子どもたちに迎えられてスタートしました。城山小学校の子どもたちも、全国どこの学校と変わらず、私たち4人のアンサンブルに目を丸くしながら好奇心いっぱいに聞いてくれています。

それに応えるように、私は子どもたちの顔を振り返って眺めましたが、この場だけでここにいる子の3倍もの命が失われた事実がどうやっても受け入れられず、やり場のない怒りがこみ上げてきました。

続くエレクトーンソロのコーナーでは、エレクトーンってカッコいいでしょみたいな演奏をする気になれず、祈りの音楽を精一杯丁寧に演奏しました。このまま式典のような雰囲気でやるわけにいかないこともわかっていますが、これなくして先に進めなかったのです。

その後の米津のショパンもまた神々しいほどに美しく濃密な表現で、子どもたちは釘付けに。その先は石川のドラムスや波多江のサクソフォンが加わり、次第に賑わいを増して、どんどん盛り上がって行きました。最後には熱狂的な雰囲気となり、子どもたちの大歓声で幕。このような感慨深い演奏会へと導かれたのは、この場所が特別な意味を持っているからかもしれません。

音楽に歓喜する子どもたちを見て、私たち今の大人が、一部の人だけが住みやすい世界へと歪めてしまったこの責任を、いったいどうやって取って行けばいいのかと、途方に暮れる思いです。自分の無力を呪いつつも、このまま何もせずにお先にあの世へ失礼というわけにはいかないと、強く深く考えさせられた長崎でした。何かしなければ。

終わり