冬の日の公演会は悲しからずや

中原中也「在りし日の歌」、1回限りの公演がひっそりと幕を上げ、静かに消えて行きました。ひとり弾き語りに端を発し、弾き語りとダンス、ひとり芝居とエレクトーン、そして今回のトリオスタイルと、形を変えながら人知れず進化を続ける舞台を見届けようと、冒険好きなステージシーカーが集まったのは、吉祥寺のライブハウス。いつもは熱気溢れる場所が、重い沈黙とやり場のない憤りに支配され、狂気の密室に。所狭しと腰掛けた観客も、それぞれに孤独と解放を噛み締める午後でした。

中原中也役の中井智彦さんが選んだ詩は12篇。それぞれに旋律を与えたのも中井智彦さん。そこに前奏曲と間奏曲を加えた14曲を編曲して演奏するのが私の役割でした。中井さんの旋律は、どことなくぶっきらぼうで、いかにも中也らしい趣き。そこに陰影を与え、立体的な聞き映えに仕上げるには、ゼロからの創作よりも手が掛かりましたし、持てる手法の限りを尽くす必要がありました。

その中で最も大切にしたのは、歌と演奏との関係性のうち、横の線の絡み合いです。縦の線を寸分の狂いなく合わせるにあたっては何の苦労もありませんが、旋律とハーモニーのバランスを絶妙に保ちながら、定めた地点で完璧に融合するようコントロールするのは難しいものです。特にエレクトーンの発音はそれに向くようには考慮されておらず、融合地点に向けて音量をコントロールするのは容易でも、音色が変化しているように聞かせるには高度な工夫が要ります。

当初は演奏も舞台上で行う予定でしたが、エレクトーンを客席後方に置いて、お客様の視界から外れる配置に変更しました。舞台上で演じられる世界観に対し、やはり演奏という行為がどうしてもリアリティを垂れ流してしまうので、いっそ見えない方が音楽的にも効果があると踏んだからですが、これは大成功でした。

ただし、客席にいるということは、観劇の邪魔になるような雑音は出せませんし、注意を引くような振る舞いもできないので、「今日は忍者」と自分を律し、暗闇の中、まさに手探りで演奏。

ひとつ困ったのは、明るさ不足で時折(しかも肝心な時に限って)iPadの譜めくり顔認識が機能しなかったこと。事前に最低限の照度を調整してもらってあったはずなのに本番で機能しなかったのは、お客様がお入りになることで何らかの光吸収があるのか、本番の消耗で自分の顔が輝きを失ったのか、よくわかりませんがヒヤヒヤしました。

それはさておき、音楽創作に込めた微細な工夫は、舞台の品格に絶大な貢献をしていたと自負するところですが、なかなか気付いてはもらえないもの。たとえそこに注意を向けられることはなくとも、観劇の思い出の中に静かに宿っていることでしょう。

客席から見るステージは、とても美しいものでした。中井さん演じる中也の純心。そして特筆すべきは米島史子さんの情感溢れるダンス。時に言葉以上の雄弁さを見せ、命に表情があるとしたらこれだと思わせる瞬間を演じていました。お見事です。

今回の舞台もまた一瞬で燃え尽き、死んで行きました。さっぱりとした。さっぱりとした。