大熊町の子どもたちと ~ひとりオーケストラコンサート~

会津若松のシンボルといえば、赤瓦の天守閣を持つ鶴ヶ城。私にとって約40日ぶりの演奏会は、鶴ヶ城の隣にある、旧・会津学鳳高等学校校舎の教室が会場でした。

会津若松の街並みには、城下町らしい佇まいと気品が感じられ、駅舎も洒落ています。もし空き時間があれば、周辺だけでも歩いてみたかったのですが、今日は演奏会に集中することにしました。

会場の旧校舎は、現在、会津若松市役所の第二庁舎として使われていますが、4月からはその一部が大熊町役場の会津若松出張所となりました。

大熊町は福島第一原子力発電所のある町ですので、今は町ごとの避難を余儀なくされており、多くの町民が会津若松で避難生活を送っているのだそうです。

玄関には本来なら遠く離れた市と町の名が肩を並べて掲げられており、受付にはたくさんの千羽鶴や全国から寄せられたメッセージが飾ってあります。

そして、この庁舎の二階が大熊町の中学校として使われており、約200人の中学生たちが日々勉学に励んでいます。子どもたちは会津若松市内で生活していますが、教頭先生は毎日いわき市から通っているそうです。

今回の演奏会は、不慣れな土地で懸命に頑張っている子どもたちに音楽を届けたいという、福島県文化振興事業団の尽力で実現しました。

中学校として使用できる区画に、全校生徒が一度に集まれる空間はありません。最も広い場所でも、通常の教室の2室分程度の空間です。そこを会場に使い、生徒たちには2グループに分かれてもらって、午前と午後に2回の演奏会をすることにしました。

朝9時に集合して準備開始。文化振興事業団の3人のスタッフは福島から駆けつけてくれましたし、エレクトーンを運搬してくれる業者さんは仙台から4時間掛けて来てくれました。

使わないものを片付け、楽器を組み立てて、音響のセッティングをしていくと、次第に演奏会場らしく、空気が整っていきます。

倉庫だった控室も、ちょっと場所を空けたりして、積み上がっていたソファを並べ、スタッフ一同でお茶を飲めるくらいのスペースができました。

のんびりしている時間はなく、いよいよ第1回目の生徒たちが入場してきました。1年生と2年生、合わせて150人弱です。

前日の夜、私はまったく眠れませんでした。ふだん子どもたちの前で演奏する時も、他のコンサート同様に気持ちが引き締まりますので、前夜から緊張が高まることは珍しくはありません。

でも今回は、正直、特別な局面にある子どもたちにどう接していいのか迷い、やや自信のないまま本番を迎えたのですが、楽器の傍らに立って全員の顔を眺めた時、いつもの私自身に戻ることができました。

目の前にいるのは、ごく普通の立派で素晴らしい中学生。いつものように、私自身が楽しんで、それを居合わせた全員で分かち合えばいい。みんなの目はやっぱりキラキラ輝いていて、友だちを大切にしながら精一杯励んでいることが、聞いている時の様子からも伝わってきました。

しみじみと聞いてもらったり、時には一緒に笑ったりしながら、70分のコンサートはあっという間に終わりました。

びっしょりのタキシードを一度脱いで、友人おススメの蕎麦屋でランチです。店の名は「かやの」。透明感のある更科のつるんとした食感がたまりません。私は辛味大根で食べる高遠そばを選びました。

食後にまったりする余裕もなく、午後の開演が目前に迫っています。早く控室に戻り、もう一度着替えなければなりません。でも、大丈夫。2分もあれば、準備完了です。

午後からは3年生のみの約70人。やはり、1年生、2年生と比べると体つきも立派ですし、それに比例して心も大人に近づきつつあることが感じられたので、午前中よりも選曲を高度にしてみました。

途中、野球部とサッカー部の男子諸君に協力してもらい、彼等のリズム感や手先のしなやかさをテストする余興をしたのですが、想像していたよりはるかに優れたセンスを持っていることに驚かされました。

「野球やめて音楽やらない?」って冗談を振ると、「いやっ、野球がいいっす。」とはにかんで、その雰囲気が場内の笑顔を誘いました。

この先どうなるとは誰にも言えないけれど、みんなが故郷の話をしなくなったら、本当に忘れられてしまう。だから、生まれ育った大熊町がどんなところなのかを、会う人会う人に自慢して下さいとお願いして、今日の演奏会は幕となりました。

代表で挨拶した子は、私の演奏を「力強くて優しい」と表現してくれました。その感性に出会えたこともとても嬉しかったです。

磐梯山を眺めながら郡山駅まで急ぎ、予定よりも1本遅い新幹線に乗って盛岡へ移動しました。目覚めたら、眩しい新緑に出会えるでしょうか。