姜建華二胡コンサート in 一関

雨は明け方には上がり、清々しい青空に流れる雲が、早く外に出ておいでと誘っているようでした。宮古のホテルは駅前でしたので、周辺に安心して走れる環境がありません。加えて路面が濡れており、万が一すっ転んで降板などということは許されませんので、ランニングはお休みしました。

その代わり、カメラ片手に周辺の散歩を。せっかく宮古に来たのですから、せめて浄土ヶ浜でも拝みに行き来たかったのですが、昨晩はネットが使えずリサーチができなかったので断念。でも、近所の住宅街を歩いているだけでも、いろいろな発見がありました。

朝つゆに濡れる花、天に向かって首をのばす花など、なにげない路地にも、美しい宇宙が扉を開けて待っています。

共演者たちは朝から魚市場に出掛け、今朝水揚げされたばかりの魚を大量に買い込んで、クール便で送っていました。ステージでは演奏家ですが、自宅に戻ればファミリーが待っていて、玄関に入ったとたんにママの顔になるのでしょう。

いよいよ最終目的地の一ノ関に向けて出発。今日もジャンボタクシーでの移動ですが、距離は昨日より短いようです。昨日と同じ国道106号線を盛岡方面に向けてドライブ。

今日はよく晴れているせいか、山々が一層くっきりと見えますし、一晩で急に紅葉が進んだような気がします。気温は12度。今日は日差しがあるので寒くありませんが、きっとこの地の秋はあっという間に終わって、冬が訪れることでしょう。

途中で立ち寄った道の駅では、地元の新鮮な農作物が売られており、多くの客で賑わっていました。私の顔ほどもある大きな松茸が5,000円程度。私には高いのかお買い得なのかわかりませんが、フェロモンのような妖艶な薫りを放っていました。

なんと共演者たちは、大根や小松菜などの野菜を買い込んでいるではありませんか。これからコンサートだというのに、すっかりスーパーでのお買い物モード。

さっきまでフェラガモのバッグを持っていたかと思えば、今度は大根がのぞいたビニール袋を提げ、すっかり主婦の様相です。どうやって持って帰るんでしょう。しかも、秋田では玉川温泉の石まで買い込んでたし・・・

今日の会場は一関文化センター。古い建物のようですが、館内はリニューアルされて綺麗です。最終日ですが、妥協はしません。音響さんと綿密に打ち合わせを重ね、真剣なリハーサルをしながら、よりよいアンサンブルを目指します。

思えば、私が舞台から転落したのも、こうした作業の最中でした。舞台から客席の音響卓に向かう時、足を滑らせて真っ逆さまに落ちたわけですが、今でも舞台から客席への階段へ急ぐ度に、その瞬間が脳裏によぎります。これきり演奏はできなくなるというあの恐怖は、もう味わいたくありません。

姜建華二胡コンサートは、バラエティに富んだ選曲が特徴です。クラシックあり、中国伝統音楽あり、J-POPあり、お客様は退屈する暇がありません。

その一方で、音響さんには大変難しい課題に挑戦してもらわなくてはならないので、毎回スタッフが変わる度に、この独特で煩雑な手順とコツを覚え、耳に馴染ませてもらう必要があります。

音響さんの第一目的は、客席内のどこに座っても聞き映えのいい音を届けることです。そして、メインとなる楽器を決して埋もれさせることなく、バランスを整えていくのが通常です。

しかし、クラシックの場合、ことはもっと複雑です。このコンサートは姜建華二胡コンサートですから、姜建華さんの二胡が主役であることは確かなのですが、クラシック音楽では、常に主役の音が前面に出ていればいいというほど単純ではないのです。

私の役割は「オーケストラ」なわけですが、常識的に考えて、オーケストラのフォルテのトゥッティより、二胡のソロが大きいなどということはあり得ないので、時にはオーケストラの響きの渦の中に二胡がさまようという場面もあります。

これは埋もれるということとは違います。音楽的に互いが見え隠れするように工夫されて書かれているのですから、その意図を尊重してこそ、音楽的に忠実な演奏になるというわけです。

そして、ピアニッシモからフォルティッシモまでの、幅広いダイナミクスもまた、クラシック音楽の魅力です。

これが、平板な音響になってしまったら、音楽の価値は半減してしまいますので、その観点からいえば、音響さんもまたスコアリーディングができることが望ましく、それが無理でも、少なくとも原曲をよく聞いて予習をしてくるくらいの熱意は欲しいところ。

あくまで理想の話ではありますが、音楽への理解なくして音響は完成しないと思いますし、ステージにこそ立たなくても、アンサンブルに参加しているに等しいほど重要な役割を担っているのですから、互いに信頼を寄せ合って、より高度な芸術表現を目指したいものです。

その点、今回の女性エンジニアはよく努力してくれました。前向きにのぞんでくれたからこそ、私たちも要求をぶつけ、ギリギリまで工夫を重ねました。おそらく、今夜の音楽は、昨晩までとは大きく趣きが違ったことでしょう。理想の音楽へ一歩でも。それが私の信念です。