師弟関係

この写真は昨年のリサイタルで撮影しました。私にとって大切な仲間たち。一部そうでない人も含まれますが、大半が私の弟子だった者です。

今日は、稽古に訪れていたエレクトーンシティ渋谷で、若いエレクトーン演奏家と、「理想の師弟関係」についてディスカッションしました。

音楽の指導を受けるには、まずは音楽教室に通って、月謝を支払うというケースがほとんどでしょう。その道を究めたいと思えば、音楽大学や専門学校に進学し、より高度な技術と音楽性を養うことになるかもしれません。

子供のころから音楽を習う場合、特定の先生から手ほどきを受ける期間が長くなり、その間に築かれる信頼関係が、その先の鍛錬にも非常に大きな影響を与えるように思います。

最近は、先生の指導を単なる商品と誤解し、「はい、集金」などと月謝を手渡す生徒もいるのだとか。代金を払っているのだから、その分だけ上達させてもらって当然という考えの親もいるようです。

でも、実際のところ、月謝の対価は「先生の時間を拘束すること」であって、「命がけで身に付けた技術や感性を切り売りする料金」ではありません。

私自身、これまでのあらゆる経験から生み出した私の音楽を、パッケージにして売り出すような気にはなれませんし、いくらお金を積まれても販売はできません。

では、どんな時にそれを惜しみなく注ぎたくなるか。それは「可能性」の一言に尽きます。そして、注がれたものを受け入れるスポンジのような感受性と、ちょっとのことではくじけない硬いこころざし。

この場合、弟子が掴み取った成果に、ともに歓喜することだけが私の報酬ですが、それで十分に満足です。

そして、よい弟子に恵まれると、師匠にもまた磨きがかかります。手本となるに足る秀逸さを保つだけでなく、弟子により高いハードルを与えるために、師匠自身も一層の高みへと昇っていきます。

互いに研磨しあい、より輝くというのが理想です。

私は私自身の師匠に対して、無礼の連続でした。この理想とは程遠く、私は師匠に消耗ばかりさせていました。
私が音楽の世界を去っていたら、本当に単なる恩知らずで終わっていたでしょう。でも、幸いまだチャンスはこれからだと思っています。

遅咲きの私ですが、やっと恩返しや貢献ができるようになってきました。こうして、やっと本物の自信が何なのかが見えてきたような気がしています。

一方で、私は弟子に厳しすぎるとよく言われます。それは私の母。「もっと優しくしないと逃げちゃうわよ。」

そう言う母に厳格に育てられたからこそ今の私がいるというのに、どういうこと?と反論したくもなりますが、黙って聞いています。

確かに、私は厳し過ぎます。特に、才能に溢れ見込みのある人には。

でも、写真のみんなの顔を見てください。厳しいからと言って逃げ出す顔ではありません。彼らは優秀で情に深く、常に人のことを考えています。私の鉄拳の御し方も心得ていますし、何があっても途中で投げ出さない粘り強さがあります。

彼らが師匠に恵まれたのではなく、私が弟子に恵まれているのだと思います。