亡き作曲家との対話

ある楽曲を演奏する、あるいは深く理解するにあたり、音楽の背景を探求することは珍しくありません。
私もしばしば「楽曲を理解するためにどのようなプロセスを踏んでいるか」という質問を受けます。

作曲家の伝記を読んだり、書簡をひも解いたり、様々な情報を通じて音楽を理解するのだと思われることが多いのですが、それはまったく違います。

私は作曲家のいわゆる歴史的な事実については何も知りません。逆にいえば知る必要がありません。
なぜなら、それらはすべて作品に深く刻まれているからです。
もし友人や将来の結婚相手についてより深く理解したいと思った時、探偵を雇って入手するような類の情報より、自分の心で感じた印象を大切にしますよね。

そうした印象は主に、時間を共有したり、対話を通じて感じとることができますが、残念ながらこの21世紀ではベートーベンやチャイコフスキーと直接対話することは不可能です。

ところが、偉大な作曲家たちは、自らの生きざまのみならず、故郷の歴史や暮らしぶり、心動かされたこと、失望したことなどを、どんな記憶媒体よりも鮮明に、自らの音楽に刻印しています。

この生々しい情報に満ちた音楽は、楽譜という形で現存しており、それを丁寧に読み解くことによって、すべてを理解することができるのです。

もちろん、何月何日、誰と会ったとか、そういった具体的な史実ではありませんし、ダビンチコードじゃあるまいし歴史的暗号とも違うでしょう(たぶん)。

でも、ショパンが見た窓からの風景、雨の色、風の香りは、はっきりとわかりますし、チャイコフスキーの甘美な旋律に潜む血塗られた歴史にも、演奏の度に胸が痛みます。

こうした情報を音楽から感じとる解読法は何なのか。それを言葉で説明することは困難です。高僧が悟りの境地に至るのと同様に、ひたすら音楽と向き合い、音符が数学的情報以上のものを語り始めるのを待つしかありません。

ひとつ言えるのは、私は頭で音楽を理解しようしているのではなく、言うなれば血で感じるというか、遺伝子的に共感する部分に委ねています。

私にとって音楽は研究材料ではなく、心のよりどころであり、あらゆる風景と感情の宝庫です。

たとえば完ぺきなバラ一輪を見た時、詩人と植物学者ではまったく違った視点を持つでしょう。

バラを音楽に置き換えた際、音楽を研究対象とする人もいるでしょう。でも演奏家の使命は、その学術的価値よりも、ありのままの美しさを皆さまにお伝えすることだと考えています。

音楽を心で聞き、今度は自らの心の声に耳を澄ましてみる。音楽を理解することは、よき友人や伴侶を理解することとよく似ているのです。