音楽相撲

延々と続くひとりでの作業と稽古。こんな私のことでも、さまざまなイベントやパーティに誘ってくれる奇特な人々が周囲にたくさんいます。私が滅入っていないだろうかと心配して、景気づけにプライベートな食事に連れ出そうとしてくれる友人もたくさんいます。

その度に「待ってました」と気持ちが動くのですが、同時に「そんな場合じゃないだろう」と強く抑制する内なる力が働きます。盛り上げてくれる人の顔を見て、外の空気を吸えば、勢いを増して効率を上げられるかもしれない。

でも、すでに途中まで登って来た岩山を、麓まで下りることは今更できません。やはり、頂に達するまでは、踏ん張り続けるのが賢明です。誘ってくれた皆さんには、愛想なしで申し訳ありません。

今月だけで50曲近くを仕上げているのですが、最後に残るのは、「苦手」かつ「複雑」な作品です。私は音楽を感じるままに表現したり、演奏に思いを注ぎ込むことは得意な方ですが、中には直感的なアプローチが難しく、じっくり解釈する必要のある作品も少なくありません。

こうした作品は、なかなか自分の中に染み渡らず、何度弾いても体が自然と動いてくれないという感触です。単純に稽古が足りないとか、自分に合わないということでは片付けられない「何か」があるような気がします。

作品と真剣に向き合った状態は、孤独なようでいて、ひとりではありません。いわば、音楽と相撲を取っているような感じでしょうか。互いに全力で向き合いながら、まったくビクともしない。そんな状態です。

そんな中、ひとつ気付いたことがあります。先週のコンクールで、見事な演奏をしながら、金賞を逃した人たちのことを考え、受賞できなかった理由はなんだろうかと考えていた時のこと。

審査に異論はありません。フェアに審査し、次にコマを進めるのに相応しい人が選ばれたのだと思います。音楽はスポーツと違い、一目瞭然とはいかないので、全員が明快に納得できる審査結果がでることは、むしろ稀でしょう。

そうか、ステージでは一人で演奏しているようでいて、実はみんな「作品」という相手と相撲をとっているのか。その相撲に勝った人が金賞を取っていった。そう考えると、審査結果により一層納得することができました。

クラシックの大作を、その作品に相応しい芸術的な出来栄えで演奏するのは、至難の業です。プロフェッショナルな音楽家が、ステージで何百回もの演奏経験を重ねて、やっと聞くに値する演奏に磨かれていくのですから。

コンクールのためににわかに選曲した作品を、たとえ必死で稽古したとしても、1年足らずの準備で芸術の域に達するなど、ある意味不可能です。結局、大作を選んだ人は作品との相撲に勝てなかったのです。

そうなると、ポピュラーや自作曲の方が、高い完成度で当日を迎えるという面では有利かもしれません。でも、クラシックを好み、得意とする皆さん、ぜひ安易に賞を狙うことばかりに振り回されず、長期の視点でもって自分の音楽を完成に導く努力を重ねて下さい。

瞬間風速で脚光を浴びても、それは実力にはなりません。生涯の糧となる経験とは何かをじっくりと考えましょう。そして、作品との相撲に勝って、何度でも聞きたくなるような演奏を実現しましょう。