通勤電車で感じる言葉の品位

通勤電車の話題です。

ほどほどに混雑している車内で、思い思いに過ごす人々。
そういえば、かつて車内で化粧をする女性に対する非難が熱を帯びたことがありましたが、少なくともここ数日は見かけませんでしたので、女性の品位が持ち直していることをあらわしているのかもしれませんね。

代わって目につくようになったのが、車内で飲食する人たち。
学生ではなく、会社員。スーツを着て、胸に社員章をつけている人たちです。

人間の本能に由来する生理的行動は、公共の場では慎むのが先進国では一般的だと教えられて育ったので、私は一部の例外を除き、それ用と定められた空間以外での飲食はしません。現代では人前で飲食することに羞恥心を持つ必要はないのかもしれませんが、私には彼らの心情が理解できないのです。

屋外のピクニックや旅行の車中など、いつもとは違った環境で食事を楽しむことは、人生の刺激的なひとこまでありますが、通勤電車内での飲食とそれらを同列に扱うことには、私は抵抗があります。

ニューヨークのようにいっそ車内での飲食を禁じてはどうかとも思いますが、一分一秒を惜しまなければならない都会の戦士たちには、背に腹はかえられない事情があるのかもしれません。であれば「ちょっと失礼します」というような素振りだけでも周囲に見せる勇気、これもまた身につけて損はないのではないでしょうか。

このように車内で飲食する人が多く、目のやり場に困った果てに、車内の広告を見上げて気持ちを逸らすことにしました。

広告も実に様々。とにかく売りたい人や儲けたい人が、なりふり構わず言葉を羅列したという感じで、見るに堪えません。これらはある種、言葉の暴力であり、常日頃からこうしたものに囲まれ続けると、自ら正しい判断を下す能力が低下するのではないでしょうか。

このような環境に日々身をさらさねばならない通勤通学の皆さんは、本当にお気の毒だと思います。

とあるミュージカルのPRに「人生一度は○○○」と大きく書かれていました。そして「すでに国民的ミュージカル」だと付け加えられていました。

この作品の素晴らしさにはまったく異論ありません。観る者の心を揺さぶるよう計算され、それに沿うよう訓練された出演者によって演じられており、実に見事だと思います。いわばハリウッド映画のようなものでしょうか。

芸術の定義にも様々ありましょうが、私の中ではこうしたエンターテインメントの数々を芸術の範疇には入れたくありません。何の予備知識がなくとも、ただただそこに身を委ねていれば、演じる側がすべてを与えてくれるものとは違い、芸術には観客もまた作品を通して深く何かを見出す積極的な努力が必要です。

話は逸れましたが、「人生一度は」に続く文言が、ミュージカルのタイトルであるような人生なんて空しすぎます。こうした広告自体が、車内の人々の生きざまをバカにしている、その事実に気付いてもいいのではないでしょうか。

同様に、「至福」とか「絶品」とか、およそ生きてるうちに一度出会えるか出会えないかということがらに対して使う言葉を、あちらでもこちらでも軽々しく垂れ流しにしているのは哀れです。

本当にものごとを極めることの意味を知らない人の言葉としか思えません。

かく云う私も、これまで言葉を軽率に使って来たふしが思い当り、こうした事象に直面する度に、憤慨しつつも自らを戒めています。

年齢を重ねれば、言葉の重みもいや増しましょう。
これ以上、言葉のインフレが進まないよう、また、本当の至福に出会った時に、それを言いあらわす特別な言葉を選べずに歯がゆい思いをすることのないよう、自らの言動にも、世の中にあふれる言葉にも敏感でありたいと思います。