今を生きて、今を弾く

うっとりするような美しい嵐の夜でした。

霞町音楽堂「奇跡のコンチェルト」シリーズ第3回目《青柳晋・ラフマニノフピアノ協奏曲第3番》、エレガントなサロンにお集まりくださったお客様と、親密に分かち合うグランドピース中のグランドピース。この嗜みに魅了されたお客様もまた、知的で素敵な方々ばかりです。

毎回欠かさずお越しくださるご常連、初めて扉を開けてくださった方、長年チャンスを待ちやっとお会いできた方。おひとりごとのドラマに寄り添えるのも霞町音楽堂ならでは。ここでは誰もがディレッタントです。

青柳晋さんとは、2023年の初共演から数えて、この夜でまだ4回目。私にとっては雲の上というより、完全に別世界の存在なので、いつも固く構えてしまうところがあります。

当の青柳さんは、いつだってムラのない、いたってニュートラルな接し方をしてくださいますが、怒りもしないし笑いもしないというところが、むしろ難しく恐ろしげでもありました。

お付き合いの長さを見れば、もう4年に及ぶわけですが、実際に過ごした時間を合算しても、せいぜい十数時間くらいで、そのうちの大半は無言で弾いているので、実際のところ青柳さんのことは、キノコがお嫌いということ以外、何も知らないのです。

この、演奏会前に突然宇宙からやって来て、ひととき音楽と私を支配した後、またあっさりと宇宙の彼方へ飛び去っていく知的生命体に対峙するには、相当の覚悟が要ることをご理解ください。

そんなわけで、過去3回の共演において、私は常に委縮し、リラックスとは正反対の、いわば人生最大の悪事がバレた時のような有様で、ステージに臨みました。こうなるとフグの毒にやられたように、体はコントロールを失います。

手痛い敗退を三度経験し、あわやトラウマになるところでしたが、懲りずにお付き合いくださる青柳さんのご厚情に甘え、今度こそはと奮起したのが、今回の霞町音楽堂でした。

「奇跡のコンチェルト」シリーズでは、11曲の協奏曲を演奏しますが、すでに編曲が済んでいるのは、ラフマニノフの第3番とガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーのみで、他9曲は新規の編曲です。

ラフマニノフの第3番は、一ヶ月前に米津真浩さんとご一緒したばかりで、まだ余熱が残っており、ディテールを詰められるチャンスでもありました。

青柳さんとの初回リハーサルは本番の4日前。ほぼ5カ月ぶりに顔を合わせ、挨拶もそぞろに弾き始めた結果は、あんがい悪くない手ごたえを得られ、ほんのりと希望が宿りました。

その日は一度だけ通し、二度目を通しても消耗が溜まる一方と読んで、幾つかのポイントを返しておしまい。一度の合わせで膨大な情報を得たので、あとは自分でそれを読み解いて演奏に反映させていきます。

2回目のリハーサルの前に、霞町音楽堂の支配人に協力していただき、最適な音作りのために試行錯誤しました。この作り込みの時間もまた、演奏そのものを磨く練習と同等に、大きな成果を生み出しているんですね。

本番の前日に行った2回目のリハーサル。またも一度通して終わりでしたが、そこには萎縮せずに弾く自分がいて、ずいぶんと気が楽になりました。

当日は、少し雨の強い時間帯がありましたが、心配された荒天にはならず、予定通りに開催することに。本番前のリハーサル、青柳さんはカデンツァこそ軽く流していましたが、他はだいぶ本番のイメージに近く弾いてくれました。

本番もこんな演奏が出来たら大満足という一体感でしたが、本番ではエネルギーが倍増し、まったくの別物になるに違いありません。

今日は、必死に合わせていたら終わってしまったということのないようにしたい。二度と取り返せないけれど、あんなに幸せだったあの瞬間を、あの美しい雨上がりの森の匂いを、すべての光が消え去ろうとしたあの失意を、私の人生の時を思い出して弾きたい。

そう思っていましたが、やっぱりそんなのどこかに吹き飛んでいましたね。でも、以前は45分間、呼吸もしなかった?と思うほど追われていたのが、やっと今という時を自覚して、今を生きている者として弾けたような気がします。

開演前、休憩中、終演後、私はいつものように客席にいました。楽屋で集中するのもひとつですが、今回は特に客席でのふれあいが気分をほぐしてくれました。

霞町音楽堂では、ペダルを打鍵する際の雑音が特に気になるため、失敬ながら靴を脱いで弾かせていただくことにしました。独奏の禿山の一夜では脱いで弾いたのに、ラフマニノフは履いたまま始めてしまい、プログラムチェンジがうまくかない場面があり失礼しました。

演奏はおおいに盛り上がったので、自分のうっかりが悔やまれますが、今まで一度も見たことのない景色を見たという思いで、本当に幸せでした。

やはりこの企画は「奇跡のコンチェルト」と呼ぶにふさわしいと思います。次回は2週間後の7月12日に松田理奈さんのヴァイオリンでチャイコフスキー。見逃せませんよ!

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